松竹映画に出てくる「いいセリフ」をご紹介します。
“世間”って誰?どこの誰のこと?
そんな顔も見えない人たちのことなんてどうでもいい
私は自分の物差しで生きるの

「人間失格 太宰治と3人の女たち」より
妻子ある新進気鋭の小説家・太宰治(小栗旬)との不倫の挙句に子を身ごもった太田静子(沢尻エリカ)による、世間体を前面に押し出して不倫を非難・叱責する弟(千葉雄大)に対しての開き直った反論でもあり、自分の信条や生き方の肯定でもあるセリフ。
たった一度きりの人生、たとえ後ろ指さされようとも自分の感覚を信じて好きなように生きる、そんな高らかな自由の宣言です。
静子自身、太宰と同業の若き作家。創作に取り憑かれ優れた表現欲を持つ者が、活動の源泉として半ば代償のように常識と引き換えに背負わされる、ある種の反社会性や非道徳性。その是非はともかく、そこに恐ろしい魔力(魅力)があることは確かです。
その他のちょっと良いセリフ
毎日続けて仕事があるってのは結構なことだよ

「故郷」より
瀬戸内海の小さな島に住む精一(井川比佐志)、民子(倍賞千恵子)の夫婦は、石船と呼ばれる小さな木造船で石を運び、年老いた父(笠智衆)と二人の子供と生活する糧としていました。大資本家が機械化の進んだ最新の大型船を使い効率よく合理的に作業を遂行するこの時世に、小さな古い石船に執着するのは無駄だと言われ、それを分っていながらも、この生活に深い愛着のある二人でした。
しかし、船のエンジンの不調と高額で見通しのつかない修理、今の石船を諦め工場で働かないかという義弟の勧めなどで、次第にこの故郷を離れる決心を迫られる精一と民子。瀬戸内工業地域の巨大なコンビナート群が、精一の心に重い影を落とします。そして、実際に工場を見学した精一は、重大な決断を迫られることになるのです。
このセリフは、上述したような、いわゆる産業の進化、資本主義の成熟に取り残された零細事業者の悲しみ、そして日々の質素な生活の単調さをボヤく精一に、一家馴染みの魚の行商・松下さん(渥美清)がかけた言葉です。
ふだん仕事に行き詰まったり追い込まれた時、逃げ出したい、放り投げたい、辞めたいという思念についつい支配されますが、そんな時に、先ずは一旦この言葉を胸に、目の前に仕事があることに感謝し、冷静になりたいものです。
燭台はこの人が盗んだのではなくわたしが差し上げました

「男はつらいよ 寅次郎恋愛塾(第35作)」より
長崎にて、ツキに見放され商売が全く上手くいかず、宿賃すらも事欠いたテキヤ仲間で悪友のポンシュウが、転売しようと教会に侵入し燭台を盗みます。現場を目撃され、警察のお縄となったポンシュウですが、教会の神父が警察に証言したこの言葉によって釈放されます。その後、心を入れ替え、神父に恩返しすべく教会で働くポンシュウ。
これまで幾度となく映画化されている、かの文豪ヴィクトル・ユーゴーの名作『レ・ミゼラブル』の名エピソードを華麗に引用したこのセリフは、『男はつらいよ』シリーズで一貫して描かれている、市井の人々の「寛容」と「善意」、そして「博愛」を象徴するセリフでもあります。
本当のことを
知る必要はなかったのかもしれない
って思えてきました

「ある男」より
弁護士の城戸章良(妻夫木聡)は、夫・谷口大祐(窪田正孝)を事故で亡くした谷口里枝(安藤サクラ)から、死んだ夫の身元調査という奇妙な相談を受けます。大祐の死後、彼が大祐ではなく、名前もわからない全くの別人だったことが判明したというのです。里枝や子供たちをはじめ周囲の誰もが大祐だと思っていた“ある男”の正体を追う城戸は、調査を進めるにつれ、別人として生きた男への複雑な思いを抱き始めます。やがて、衝撃の真実が明らかとなります。
このセリフは、亡き夫=”ある男”の正体を知った後での、里枝の言葉です。夫の正体=【真実】がどうあろうと、彼が自分の愛した夫であり、子供たちが慕う父親であったという<事実>は、何ら変わりません。ましてやその【真実】が、里枝たちの人生、過去、記憶、すなわち<事実>を毀損するような、その後の人生に暗い影を落とすような、いわば負の内容だとしたら、そんな【真実】=本当のことなど意味は無い、知る必要は無いとすら言えるのではないでしょうか。
これは<事実>と【真実】の意味や価値について思考を喚起するような、言外の示唆に富む、重みのある言葉です。
あの…そっちへ行っていい?

「旅の重さ」より
父親を知らない16歳の少女(高橋洋子)は、男にだらしがない絵描きの母親(岸田今日子)に辟易し、家出を決行、独り行くあてのない旅を始めます。しかし、旅の途上でさまざまな出会いや別れを経験しつつも、ついに栄養失調で行き倒れてしまいました。
そんな少女を拾って看病したのは、独り身の行商を営む朴訥とした木村(高橋悦史)という男でした。木村による看病の甲斐あって回復した少女は、看病してくれたことへの恩返しをすべく、木村の家に居付き、二人で暮し始めます。父親ほどに歳の離れた、無口で言葉少なく多くを語らない男の世話をして暮らす中で、つい木村に、知らずに育った父親の姿を夢想、父性への憧憬を投影してしまいます。
このセリフは、少女が、知らずに育った父性を、父の温もりを希求するあまり、隣りに敷いた布団で寝ている木村に、同じ布団で一緒に寝たいと、勇気を出して口にしてみた、ある種愛の告白にも似た言葉です。ちなみにもし筆者(中年男性)が言われたら、どう返答するか想像がつきませんが、少なくともドキドキゾクゾクするに違いありません。
そもそも母親の、母性よりもあまりに「女」の部分が強すぎる姿、それに翻弄される生活を嫌っての家出の旅、少女が父性を強く求めるのは当然の帰結でしょう。そして、そんな少女の懇願に男は戸惑い、困惑、狼狽するも、その一方で、今まさに少女から大人の女へと成長する過程の真っ只中にある、少女の肉体の眩しくも瑞々しい魅力に、やがて男が「異性」すなわち「女」を感じ始めるのも時間の問題でした。これも当然の帰結でしょう。
無くなウミガメ 明日があんで
明日できることは今日せんでもいいけどな
ボチボチ行け

「岸和田少年愚連隊」より
1975年、大阪・岸和田。中学生のチュンバ(矢部浩之)と小鉄(岡村隆史)は、喧嘩に明け暮れる札付きのワルたち。仲間のサイ(宮迫博之)、アキラ(宮川大輔)らと共に、敵対するアンドウ(吉田敬)、ゴリ(原西孝幸)、ゴリの連れ(藤本敏史)、ゴリの兄(山本太郎)らと、殴る蹴るのみならず、バット、鉄パイプ、石、鉄板など武器は何でもアリの熾烈な抗争を繰り広げていました。
そんなヤクザ顔負けの日々の中、ある夜、瀕死の重傷を負い、ほうほうのていで帰宅したチュンバに、TV番組「野生の王国」のウミガメが泣きながら命がけで産卵する姿を見ながら、オトン(石倉三郎)がかけた言葉。
こてんぱんにやられる時もある。そんな夜はじっと耐えて体を休め、ケガを癒し、気持ちを切り替えて、明日(以降で)やり返せ!
そんな父の激励がこめられたセリフです。やられたらやり返すということ自体の是非はともかく、思うように上手くいかない時も、納得いかない時も、へこたれずに強くたくましく育って欲しい親心がにじみ出ております。そのようにして、昭和の岸和田の少年たちは、大人たちから時に厳しく時に温かく怒られ助けられ、愛され笑われ、タフでハードな日々を過ごし、大人になっていくのでした。
それにしても…井筒和幸監督による、セピア色のノスタルジーと血沸き肉躍る生々しいバイオレンスアクションがあふれる青春グラフィティーの本作、本稿冒頭でも何名か列挙しましたが綺羅星のごとき超豪華キャストです。
何もかもさ。

「青春残酷物語」より
学費滞納で除籍寸前の不良大学生・清(川津祐介)は、同じく不良の女子高生・真琴(桑野みゆき)と運命的に出会う。自分の言う事に素直に従わない年下の真琴を、苛立ちを隠さず、サディスティックに、荒々しく抱いた清。粗暴に抱かれた直後、清に何に対して怒っているのか問うた真琴への、清の返答。刹那の衝動に突き動かされ無軌道に生きる、あらゆる現実や既成概念に牙を剥き、触れるものすべてを傷付けてしまう鋭利なナイフのような清を象徴するセリフ。そこには、青春特有のまだ幼い感情に根差した眩しさと瑞々しさがあふれ出ており、年と経験を重ね常識と分別を得た大人にとっては、懐かしく、羨ましく思えるかもしれない。しかし、若さは往々にして手痛い代償を支払うことになることを、二人は知ることになる…
今、幸せかい?
ところであなたたち、何者ですか?

「CUBE 一度入ったら、最後」より
年齢も性別も職業も不明、何の接点もない見ず知らずの男5人女1人の計6人が、突然密室に閉じ込められました。理由不明、心当たりも全くない、きわめて不安かつ理不尽な状況で、紅一点である女(杏)が発したひと言です。口に出すかどうかはさておき、この状況下でそう思うのは当然です。
思えば、入学式で同じクラスの同級生たちに対して、あるいは入社式で同期たちに対してなど、任意で選ばれた複数の人間が互いに初めて顔を合わせる時に、これから過ごす時間や起こる出来事、歩む道のりなど自分たちを待ち受ける未来にワクワクする気持ちと共に、自分以外の連中は何者なんだろう?という興味関心を誰しも抱いたことがあると思います。
このセリフには、ある意味それに近いものがあると言えます。
しかし本作、残念なことに、彼ら見ず知らずの6人を待ち受けるのは、ワクワクとは程遠い、そんな感情が微塵も許されないような過酷な状況でした。熱感知レーザーや火炎放射器など、あり得ない凶悪な殺人トラップの数々がほぼノンストップで襲い来るのです。理不尽、ここに極まれり…。


